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>>小規模作業所・通所授産施設全国連絡協議会ニュースbQ3  
  現川小規模作業所からコリアンダーの家へ  
     平成9年の6月に突然会社に辞表を出して、家族に作業所を作ると言い出した時は、さすがに誰一人として賛成してくれる人は居ませんでした。「60歳過ぎてからやればよい」とか「そんなことは大金持ちのひとがやることでしょう」とか「絶対個人ではやれません」とか、「家族の生活はどうするの」とか、どれもこれもごもっともなご意見ばかり。

 周囲の意見を無視して人生の舵を切った私が、その頃、親や妻や子に言ったのは「これから先、この自閉症の(女だてらに人をたたいたり、車のフロントガラスを足で蹴破ったり、消火器を見れば所かまわず消火訓練のまねをして粉をぶちまけたり、近所の家のテレビを壊したり、玄関ドアを壊したり、とにかく言うことを聞かずに問題ばかり起こす)子を一人犠牲にして、他の家族の者だけが普通の生活をすることは容易い。」つまり、将来どこかの入所施設にお世話になって、定年まで会社に居れば、ささやかな贅沢は出来ようということである。「だけど、私にはそれは出来ない。この娘に普通の暮らしをさせてあげたい。そして何より、これから先も世間に堂々と私自身の人生を送りたい。障害を避けて、息を潜めるような暮らしをするより、障害とどっぷり四つに組んで根底からその障害を取り除いてやりたいと思う。そうしてこそ初めて家族全員が正々堂々と明るい表通りを歩けるんじゃないか」と。

  しかし、それまでには一人でこっそりいろいろ見学に行ったり、いろいろな人に相談したりしました。その中の一人にLD児や感覚統合の分野で有名な大学の先生がいました。 私は親しくしていたその先生に「小学4年にもなると女親には手に余るようになり、よく会社に助けを求める電話がかかるようになりました。このままでは、子どもが壊したよその家のピアノやテレビの弁償金や怪我をさせた治療費その他に給料が追いつかない。おまけに家では、肝性脳症で短気な、同居している父が、自閉症の子をこっぴどく叱り、たたいたりすることもある。そんなこんなで大変なんですが、それでも高等部までは、学齢の間は、まだなんとかなると思います。でも、その先は、先生どうなりますか。この子が行くところがありますか、親が一生、家で面倒見なければならないのですか。親が死んだらどうなりますか。」とお聞きしたことがあります。

  すると、その先生は「何もありません。今の日本では彼女を受け入れるところはないでしょうね。」と間髪を入れずにおっしゃるではありませんか。それから、2年かけて「本当に困っている人が通える作業所を作ろう。」と思うようになりました。

 平成9年の暮れに会社を辞めて、私が「これから知的障害者のための作業所をしたいと思っています」と養護学校の先生に声をかけたところ、4人の子どもさんが4月から来ることになりました。最初は自宅の6畳からのスタートでした。晴れた日は畑にハーブを植えて、雨の日は近所の陶芸家の先生から植木鉢の作り方を教えてもらったりしたものです。  一年目は何の補助金もなく、売上もわずかに10万円だけという状況でした。先の展望も開けず、不安のどん底といった具合でしたが、幸い一年がかりで土地を売ることができたので、資金的には一千万円程度の余裕が生まれました。

 しかし、2年目を迎える頃考えたのは、「この春、通う人が一人でも増えるようなら続けよう。もし人が増えないようならば、今通っている人には悪いが、自分の経験のなさが原因で、このような福祉の仕事はもう出来ません。」と言おうと、心に決めていました。

 すると、3人の新卒者が養護学校から来てくれました。「とにかく旗を揚げればその下に誰か集まってくれるさ。」という漠然とした私の予感は的中しました。2年目の春に
現川小規模作業所育成会を立ち上げ、保護者の中から代表で会長になってもらいました。会計は1年目から複式簿記で、設立発起の総会で決算報告をして以来、すべてオープンなものにしています。
  長崎市では、当時、利用者10人から年間500万円の補助金が下りることになっていましたが、まだ利用者が足りない状態でした。建物も中古のプレハブを買って据えただけの雨漏りのする状態でした。市街化調整区域でしたので、任意団体が福祉目的で建物を建てることは原則として出来ないことになっていたのですが、「私たちは社会福祉法人が運営している施設が足りないから、障害のために就職できない子や一旦就職しても不景気のため、辞めさせられたわが子のためにこの施設を作ろうとしているのだから、何とか建築確認が取れるよう善処して欲しい」と市長秘書室に趣意書を持参しました。

 実際、うちに通っている人達は、養護学校の校長先生方からお聞きするところ、一番難しい人達だそうです。精神的にダメージを受けた人が多く、企業や学校で彼らにすれば「ひどい仕打ちを受けた」ということになるのでしょう。親御さんの中には二度と同じ過ちを繰り返したくないと就職を希望しない人も居ます。精神病院からようやく退院して元気になってきた人もいます。とにかく一人一人言うに言われぬ障害を抱えているのです。

 すると、市長の「これはいいことだから何とかしなさい」の一言から関係部課長さんが必死になっていただき、逆に「早く書類を提出してください」といわれるようになりました。結果的には「許可申請」という方法で市長名で県知事宛に申請を出していただき、無事、建物は出来ました。後で聞いた話ですが、そのときの審査会では「ハウステンボス」付近の大規模団地の開発計画やら何やらの申請案件の中に7坪ほどのトイレもないような福祉施設があったということで、とりわけ異例のことだったということです。

 2年目の夏ごろ社会福祉基礎構造改革の話が具体的に出てきて、長崎市でも小規模作業所の補助金を8人から出そうということになりました。つまり、10人集まればもう法人化ですよというわけです。運良く、通う人も一人二人と増えて、一応8人になったので平成12年の1月にはじめての補助金が振り込まれました。会社を辞めてから丸二年、無収入状態でしたのでこのときばかりはほっとしました。

 このとき親御さんたちと相談したことがあります。それは、月に1万5千円ずつ頂戴していた保護者負担金を補助金が下りたのを機会に無くすかどうかということでした。 無くせば本人たちがもらう工賃は月に3千円です。無くさなければ月に一万5千円もらえる子もいます。ほとんど何も出来ない子は3千円のままなのですが、ほとんどの子は少しずつ増えるわけです。すると、全部の親御さんが本人たちに渡して欲しいとおっしゃいました。その頃から親御さんたちが熱心に作業所に協力されるようになり、トイレも寄附で出来上がり、私の自宅の汲み取りがあふれることもなくなりました。

 翌年、私は本会の宇奈月温泉で行われた作業所の全国大会に参加しました。法人化の話が盛んに取りざたされていました。3年目の冬、私たちはまだ3年足らずの実績しかなかったのであきらめていたのですが、1月8日に障害福祉課より法人化の意思確認の調査票が来ました。私が「3年の実績しかない私たちの作業所に法人化するかどうかの質問をされるということは、長崎市長が私たちを推薦してくれるということですか」と担当者に電話の先で質問をしたところ、「そういうことになりますね。」といわれました。「ありがとうございます。長崎市がそこまで考えてくださるなら、私たちもがんばります。」と即座に答えたのをおぼえています。それから2週間で法人理事会の人選から施設整備計画まですべての書類を整え、何とかかんとか間に合わせました。とにかく、運営費の補助金が倍増し、職員も雇い入れることが出来るし、本人たちの工賃も増やせる、増改築をして雨漏りも直せる、壊れかけた陶芸の窯も新調できると来れば、2週間くらい眠らなくてもやり遂せねばと必死でした。一番大変だったのは理事や監事の方々にお願いして一堂に会してもらうことでした。開業医、税理士、会社社長、会社役員、大学教授、保護者2名と理事長の私という顔ぶれでこの短期間に全員が都合を付けることがなかなか出来ませんでした。
設立発起の準備委員会議事録だけは全員出席でないといけないというのです。委任状でも不可です。最後は詳細設計図面で、期限の時刻に青写真のまだ濡れて乾いていない
ものを障害福祉課の窓口で設計士の先生から受け取って提出しました。これも後で聞いた話ですが、最初の申請で施設整備があったのは私たちだけだったとのこと。6月ごろなかなか認可の内示が下りないので、県の育成会や市役所を通じて国に聞いてもらった
ところ、施設整備のあるところは返事がまだ後になりますとのことでした。巷では現川さんはだめだったとか、いろいろうわさが流れていました。ともあれ、夏ごろには正式に内示が下りてほっとしました。

 9月長崎市議会での補正予算に入れていただき、いよいよ本格的な認可申請になったのですが、これがまた重箱の隅をつつくような作業で、民間企業出身の私にはとても理解できないようなことが多かったと思います。落ち着くところに落ち着くまでに2ヶ月を要し、当初12月1日の開所予定だったのがとうとう年明けて、1月30日になってしまいました。資金的にも丸2か月分の運転資金に事欠く始末で大変苦慮しました。何せマラソンに例えれば42キロを全力で走った後にまた10キロ走れといわれるようなもので、なけなしの、娘名義の預金を取り崩して、また、施設整備の自己資金分の借入金の保証人に、理事のお一人になっていただいたりして解決しました。個人的にも実父が12月23日に亡くなるなど、看病から葬式から、入札から建築まで大変な年の瀬でした。

 一方、社会福祉施設の施設長講習も昨年同時に受けましたので、この頃、レポート書きに追われました。小規模通所授産施設の施設長たるに必要不可欠というわけではなく、取らなければ取らなくてよい資格ではあったのですが、勉強のため、私のような畑違いから来た人間には、本人たちのため知っておくべきだろうと考えて受けました。
学校の校長先生や役所や農協の参事上がりの人達も多くいた講習でしたが、一緒に夕食を共にしたりした中で感じたことは、この人達は「親」とはぜんぜん違うことを考えているということでした。創業者の私から見ると不愉快に思われることが多々ありました。やはり自分の子は「親」がしっかり将来を託せる人に、あるいは組織に任せるしかないのだ。と皮肉にも福祉の面接授業の際に確信してしまったわけです。

 そうはいっても、勉強すればするほど自分の俗さ加減に我ながら幻滅するわけですが、今は出来るだけのことはして行こうと謙虚に思っています。物心両面の準備が十分整ってから何事も始めるのが理想であるということは誰しも分かるのですが、最初に言ったとおり「60歳になってから」では実際には遅すぎると思いました。これは事実だろうと今は特にそう思います。この仕事は結局、若い人に託さなければならない仕事ですから、なるべく若いうちに自ら経験しておくのが良いと思われます。そのノウハウを30歳くらい若い人に伝えなければならないのです。

 3月10日に20歳の常勤の女性職員が一人入ってよくやってくれています。今、パート2人と合わせて4人で定員15人の施設を運営しています。我々の育成会の、言い換えれば「親」の遺伝子を多くの「他人」へ伝える仕事を今始めたところです。将来はこの地域に、希望する利用者には住居を提供し、普通の暮らしをさせようとまじめに思っています。土地はありますから、住居は親が元気なうちに建てるとしても、親亡き後に普通に暮らしていくには、十分な収入が必要だと思い、作業所の時からずっとオリジナル商品の製造にこだわって、収入を増やしてきています。下請け仕事ではこの子達の将来はないという信念のもと「コリアンダーの家のハーブのお塩」やポプリ、ハーブティー、ドライハーブ、セイタカアワダチソウの釉薬で焼いた陶器、手作りの花瓶や植木鉢などいろいろな物を一年中忙しく作っています。3年目が200万円ほどの売上で4年目の今年は300万円ほどの売上を目標にしています。皆の工賃も小規模通所授産施設になって上がり、保護者負担金もゼロになり、最初からいる4年目の女性をはじめ、数人の利用者は月2万5千円もらえるようになりました。

 言葉のない子やほとんど歩けない子も居ますがそれぞれの子が少しずつ良くなれば、あるいは、今日はあれをしたい、行きたいとか思えるようになればよいと思っています。また、今度、作業所から小規模通所授産施設になったことで生活環境や作業環境が良くなり、障害の重い人も通えるようになりました。養護学校の高等部の現場実習で他のどこの施設にも受け入れられなかった自閉症の男の子を6月に受け入れました。普通は学校から実習申し込みがあるのですが、この子の場合は、学校からより先に、お母さんから申し込みがありました。「よその子と同じように実習を一日でもよいから受けさせてやりたい」と。結果は、2週間一日も休まず立派に通って来ることができました。 もちろん、今まで通っていた人たちも大変喜んでいます。工賃が増えたことが一番嬉しかったようで、動きが目に見えて違います。頑張れば工賃が上がるということを、無言のうちに実際に体験して分かったようです。私としては、その期待を裏切らないように、今後やっていくために、今までよりなお一層の努力が必要とされる訳で、心底苦しい状況に置かれたなあと実感しています。

 要するに生きがいを持って地域で普通に暮らせるよう、親も子も頑張れればよいと思っています。小規模通所授産施設になったので居宅介護事業(ホームヘルパー)デイサービス事業、一時短期入所事業(ショートステイ)グループホーム事業などの支援費制度事業の説明会の案内も届くようになりました。今後は、現川小規模作業所育成会の親御さんたちの意向を尊重して「本当に困っている人のために」何かしていきたいと思っています。

   
         社会福祉法人 萌友会
      知的障害者小規模通所授産施設
        コリアンダーの家 馬場 隆幸