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私が目指すところ
 
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    しかし、こういう見方も出来ます。
普通の生活とは1種類しかない。
つまり、生活保護レベルの生活かそうでないかです。
悲しいかな知的障害のある人の中には生活保護レベルの生活を送っている人が多い。
例えば、老人福祉の方なら、昔の養老院、今の養護老人ホームや特別養護老人ホームは生活保護レベルで、ケアハウスとか云うのはそうではありませんよね。
私は贅沢な暮らしをことさら望むわけではありませんが、知的障害のある人達、わが娘やコリアンダーの家に通っている人達に将来も生活保護レベル以上の自由な生活をさせてあげたいと思っています。
が、施設にはそういう自由がないことは皆さんのほうがよくご承知だと思いますので、今更なにも申しませんが、勘違いされては困るのですが、私は施設を否定するわけでも、批判するわけでもありません。
必要な時期、必要な人のために必要なのですから。
しかし、わが子には施設に入ってもらいたくない、ましてや精神病院に入って欲しくないと思ったから、今の日本では精神病院しか、家の他には行き先がなさそうだと思ったから自分で立ち上げたのです。
施設や病院がいくら立派な建物で豪華なソファーやホテルのような設備があったとしても、あばら家のような家でも、我が家といえる家があるならば、家のほうが居心地がいいに決まっています。
先日、作業をしているときに、うちに通ってきているある利用者が、「コリアンダーの家のほうが家にいるより楽しい、居心地がいい。」といいました。
すると、ハーブを刻んでいたもう一人が「家のほうがゆっくりできるやかね。」と反論してきました。
周りにいた利用者や職員や実習に来ていた養護学校の生徒や先生は、私の顔色を気にしてか、何といっていいのかわからずにか、一瞬黙ってしまい、気まずい変な雰囲気になりました。
私はすぐ、こう答えました。
「当たり前やかね。家のほうが居心地がよか方がよかとよ。そのほうが普通ばい。」と。
コリアンダーの家がいいといった人にはもう親はいません。
私の小学校の同級生で、一戸立ての家に1人で住んでいるので寂しいのでしょう。
「家のほうが居心地がようなからんば困るとばい。」と私がいったらみんなほっとしたようでした。
知的障害を持つ人達は他人の気持ちを考えることが一番苦手だといいますが、意外と大事なことは、たとえば自分の居場所についてはとても敏感です。
それを、知的障害があるばかりに親や先生に遠慮して、親や好きな先生に悲しい思いをさせたくないとストレートに口に出せないでいることが多いようです。
わずか5年の間に、鈍感な私にでもそのことが良く分かるようになったので、うちでは去年あたりから、苦情処理システムをかりて、自分の意見をいう練習をさせています。
去年は「なぜ、給料が下がったのか。」とか「あいつがいると来たくてもこれない。」とか「もっとよく話を聞いてくれ。」「もっとやさしく話してくれ。」とか様々な苦情が来ました。
作業時間が終わってから30分間、利用者10人と理事長1人が直接苦情処理の会議を持つというのもひょっとしたらうちぐらいかもしれません。
「内容はともあれ、こういうふうに何でも言ってくることはいいことだから、私は嬉しく思う」といって、まるで労使交渉のように話を聞くわけですが、最近はこういうことも珍しくなくなって、パターン化してきて、利用者にとって安心して話せる、また、問題解決できる方法として定着したようです。
私は生活保護レベルではない普通の生活をみんなに望んでいるので、いろいろな面で、普通の人達が会社や家庭でやっているようにやっています。
少しばかり、知的障害のことに配慮して、代わりに言ってやったり、書いてやったりするだけで十分人間として必要なことはやれるのです。
とはいっても、やはり先立つ物は必要です。
収入の糧として年金と作業収入がありますが、うちの目標は、よく働ける人は、年金と作業収入とあわせて健常な人のもらう最低賃金ぐらいもらえるようにしようということです。
うちには生活保護を受けている家庭のお子さんも通ってきていますから、そういう人にはいつか自立もして欲しいと思っています。
自主参加の旅行などにはどうしてもその人は参加できないのです。
それで最低賃金くらいを稼ごうとやっているのですが、これがやってみると、とてもむずかしい、たびたびあきらめたくなることがあります。
   
 
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