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地域では警察や消防や自治会、地域のPTAなどで有名になりまして、また私がこんな仕事をしていますし、地元ではいろいろ役も持っているので警察やいろいろなところに友人や知り合いや先輩がいて、よくしてもらっています。
うちの子に限らず、地域で暮らすには障害を隠そうとする方向、遠慮する方向、外に出そうとしないなど、消極的になるとどんどん問題が起こったときに悪い方向に行くようです。
昔から泣きっ面に蜂、とか弱り目に祟り目とか言うじゃないですか、そうではなくて、決してスタンドプレーではないし、よそ行きに振舞うわけでもなく、ただ、問題から逃げない姿勢というか、本人を中心に考えるならば、親がすべきことは当然決まってくるわけで、それが周りから見れば積極的となり、そのうち親自身も変わってくるということではないかと、私の経験から考えます。
うちの娘は特別、問題を起こす機会が多いですが、どんな人でもいろいろ問題を起こします。
うちに通ってきている人でも、通勤のバスのなかで前の席に座っていた女子大生に息を吹きかけたとして、警察にその人がバスを降りてから駆け込んで、気持ち悪いから止めさせて欲しいと訴えられました。
そのときも、以前からうちの娘のこともありまして、その学生さんがコリアンダーの家のことをご存知でしたので、「多分コリアンダーの家の人だろうから所長さんから言ってもらえば、そんなことをしなくなるだろうから」と警察の人に言われたそうです。
それを聞いた派出所のおまわりさんも、上司に報告したら、「ああ、それはコリアンダーの家はわたしの同級生がやっているところだからよろしく頼む。」と逆に言われたと、あとで私に教えて下さいました。
もちろん、すぐに息を吹きかけたその本人にも自宅に行って、親御さんのいる前でよく言い聞かせ、その後はそのようなことはありません。
また、精神病院にお世話になった人も複数います。
家庭の事情でいろいろあって、落ち着かない時期に、家ではあれてしまってとうとう病院行きとなってしまったのですが、私が見舞いに行くと普通なのです。
あとで、病院の先生がご両親に教えてくれたそうですが、コリアンダーの家に行くことだけがその頃の彼には救いだったとのことでした。
そんなことがあって、今ではご両親も認識を新たにして本人と接し、お父さんもそれまでうまく付き合えなかった分、今頃になって一緒に釣りに行ったり、モーターショーに行ったりと息子孝行をしておられます。
今では、うちの社会福祉法人の理事もしてくださって、施設運営に大変な貢献をされています。
余談になりますが、現在の日本の精神病院に多くを望めませんね。
私も去年の夏休みによい経験をしました。
長い休みが終ろうとする頃、本人の永年の夢だったディズニーランドの旅行から帰って、翌日からH学園にいつものように1週間のショートステイにやられることになっていました。
ところが去年は旅行の興奮冷めやらないのと出掛けに私と家内が些細なことで言い争ったことが原因で久しぶりにひどいパニックになりました。
急遽かかりつけの精神病院に行き注射をしてもらい、フラフラの状態になりながら何日かH学園ではなくて、病院に入院させようということになり、病院のベッドまで連れて行きました。
しかし、その病院の先生の話をよく聞くと、このまま置いていくと、 病院がすることは、ほかの患者に悪影響を与えないために、手錠をかけて個室に拘束するしかないというのです。
泣こうがわめこうが容赦しないということがわかって、あわててつれて帰りました。
私たちは、最初の先生の話で数日、薬をあらたに調整をすれば落ち着くだろうと思っていたのですが、いざ入院しようとなると係の先生の話が違うわけです。
本当の話をきかせてもらって帰ってよかったと思いましたし、お陰で家につれて帰ったら、翌日からだんだん落ち着いて2学期からちゃんと学校にも通えました。
そのとき、この子たちにとってどれほどコリアンダーの家のような地域にある通所施設が大事なのかということが改めて痛感されました。
一般企業に勤めていた人も3人通っているのですが、そのうちの1人は工場長から殴られようと何されようと我慢できたのですが、ただひとつ我慢できなかったのが、社長さんが忘年会のとき酒を飲んで彼にべたべた何事か言ってくることだったのです。
それで、とうとう会社にいけなくなって、親御さんが理由を聞いてみたら、いろいろ出てきて、そんな状態では仕事にやれないとさっさとやめさせて、2度と同じ過ちをさせたくないとうちに通わせるようになりました。
今ではうちの親の会の会長を永年やっていただいています。
それから、高等部を卒業してうちに通って来始めた頃はたまに家は出ているのにうちまでたどり着かずに夜になって家に帰ったりしていた子が、今では毎日来るようになって、先ほどの花見の日の表彰で1番になりました。
ご両親もその変り様に驚いて喜んでおられますが、それまでなる過程ではいろいろなことがありました。
まず、浦上駅で交通事故に遭い、半年間入院している間に、時折行くみんなのお見舞いが嬉しかったのでしょう、誰かの誕生日には必ずケーキを買ってお祝いするのですが、そのときは必ずその子の分を届けに大波止の病院まで見舞いに行っていました。
退院してからは、話し相手の利用者も出来て、無口だった子が一番おしゃべりになりまして、お父さん曰く20歳になったときの年金の申請のための審査では、だまっていろといったのにしゃべりすぎて年金がもらえませんでしたとのことでした。
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